私が整体を人に教える理由
漂流する人たち
私が整体を人に教えようと思ったのは比較的早い時期だったと思う。
2002年1月に開業して、半年後には新規予約7か月待ちの人気整体院になった。それは実力というよりも、テレビや雑誌が盛んに私のことをゴッドハンドと持ち上げたことによる。北は北海道から南は沖縄、海外もインドやアメリカ、シンガポール、オーストラリアなどから私の整体を受けにやってきた。
わごいちは今でもその当時からの遠方通院者が沢山通う。ここ本町を動けないのも、関西空港、大阪空港、神戸空港、新大阪駅それぞれからの利便性を考えてのことだ。(本当は岡山県か淡路島に移住したいというのは私の長年のかなわぬ夢である。)
日本中から多くの人がやってきて、これまでの苦労話を聞かせてくれる。どんな治療や施術を受けたか。そして失望してきたか。わごいちに巡り合ってどんなに救われたか。そんな風に言ってもらえるのはありがたかったが、同時に多くの病院や整体院があるのに、どうしてこれほど多くの人が救いを求め日本中を漂流しなくてはならないのだろうか、そんなことをいつも考えた。
このままでは整体が無くなる
謙遜するわけではないが、初めのころは自分の技量にそれほど自信はなかった。努力は誰にも負けていないという自負だけはあったが、それでもこの世界で20年、30年やってきた先輩たちにはまだまだ敵わないだろうと思っていた。
しかし5年、7年とやっていると、段々と周りが見えてくる。わごいちにやってくる人たちが、世間の整体の体験談を話してくれる。(真剣に悩み漂流してきた人たちの情報力には脱帽する)またメディアによってわごいちの名前も知れていたので、同業の整体師たちがわごいちの施術を受けにやってくる。そして自分の知っていることを話していく。
その結果見えてきたのは、思っていたほど世間の整体レベルは高いものではないという現実だった。そしてより問題に思ったのは、こういう低レベルの現状を直視し、行く末を真剣に考えて取り組んでいる整体師があまりにも少ないことだった。皆、自分のことで精いっぱい。明日の集客にばかり目が行っているようだった。
時代はそんな甘えた整体界に鉄槌を下そうとしていた。規制緩和によって柔道整復師が大量に増え、彼らがかつて馬鹿にしていた骨盤矯正やアロママッサージなどに進出してきた。整体院の仕事が整骨院にどんどん奪われていったのだ。
仕事を奪われた整体院はどんどんと潰れ、整体院経営者はクイックマッサージでバイトをはじめた。女性整体師が風俗系のマッサージに流れているという話もよく聞いた。力がないと言えばそれまでだが、ただ見ているだけの己にも不甲斐なさを感じるようになっていった。
塾長メッセージ「整体を変えよう」
状況は悪化していく一方だった。毎年整体学校から何万人もの整体師がうまれてくる。しかし整体学校も経営が一番大事で、本当の整体師を育てようとはしていない。学費さえ集めれば、卒業後のことなんてどうでもいいのかもしれない。第一、世の中に本当の整体師がほとんどいないのだから、本当の整体を教える先生などいないのだ。
いくつもの病院や整体院を漂流する悩める人たちをどうしたら救えるのか。整骨院に仕事を奪われて苦しむ整体師たちをどうしたら救えるのか。考えるほどに行き着く答えは一つだった。しかしどうしても「やろう」という踏ん切りがつかないまま、時が過ぎていった。
そこにあの東日本大震災が起こった。沢山の人の命が奪われ、放射能に大地が汚染された。自分が命あるうちにやるべきことをやろうと覚悟を決めた。
2011年4月、私は「三宅式整体塾」を立ち上げた。
同年4月に2名、6月に2名、その後もポツポツと塾生が集まってきた。どうしてこの塾を知ったのかと聞けば、それはホームページに公開した「塾長メッセージ」だった。今はサイトも閉じてこのメッセージも消滅してしまったが、私が発した「我々が整体を変えよう」というメッセージが心に響いたようだった。
三宅式整体塾の面白さ
三宅式整体塾は毎月2回、各2時間の足圧練習を行った。月謝は月に1万円。そのほか入学金があった。塾生は10人前後で推移していたと思う。久しぶりに動画を見てみると、こんなことを言っていた。「体液の遠心力で体を動かすんです。筋力じゃなくて、へそから発した体液の揺れでほぐすんです。」なんと難しいことを、繰り返し指導する私がいた。
技をつくるような指導は極力省いた。技よりも感覚をどう伝えるかということに腐心した。感覚ができれば技はあとからついてくるというのが私の信条なのだ。また個人の個性を活かしてそれを引き出すことを優先した。非常に自由度の高い、逆に言うとよほどの本人の努力と工夫がないとものにならない、そんな指導だった。
2番目の弟子である井上紙鳶に出会ったのもこの塾である。彼女は個性派の集まりであった三宅式整体塾の中でも、ひと際目立つ存在だった。体の線は細く、体重は35キロほど、それでいて全身がむくんでいて、内臓はボロボロで生きているのもやっと(大げさに書いているのではない)という状態だったが、それでも誰よりも熱心に指導に喰らいついてきたし、自宅での自主練習もちゃんとやっていた。
人は皆、何かをアドバイスされると、自分のフィルターにかけて無意識にアレンジして理解してしまうものだが、井上はそのまま自分を真っ白にしてそのまま吸収しようとする才能があった。私が伝える感覚をそのまま自分の中に実現しようとしていた。
彼女のそういう見どころをみて、半年後に私は彼女に「弟子になるか?」と尋ねるわけだが、三宅塾がなければ井上は私の存在を知ることはなかっただろう。人の縁というものは誠に不思議だと思う。
感覚を養うという困難
そんな独特で面白かった三宅式整体塾であったが、段々と行き詰まりを感じるようになってきた。技からではなく、感覚から伝えていくという当時の私独特の練習を理解する塾生が(井上以外に)居なかったのだ。
厳密に形を押し付けられないのは気が楽だろう。ある程度我流でも許される気になる。これが私のやり方よ、個性よ、と自分独自の形として開き直ることができる。しかしその形に感覚が伴っているかどうかが、本当は問題なのだ。相手を感じ取り、自分を感じ取る感覚、その二つの感覚を磨きながらよりあわせていく感覚。そういう感覚に基づいた形なのか。そうでないのか。いずれそこに歴然とした差が生じる。
私はそのような考えで自身の修行も行っているが、なかなかこういう取り組み方を理解する人はいないものだということを、私は三宅式整体塾で学ぶことになった。
結局三宅式整体塾はこの点において限界を露呈し、私は一旦この試みを仕切り直すことにした。三宅式整体塾を解散し、腹育整体入門部、そして無楽整体研究会と試行錯誤は続いた。やり方を変え、手を変え品を変え工夫してきたが、結局ところ私の修行のやり方は世間一般には通用しないという現実を思い知らされた。
型稽古に行き着く
数年間に及ぶこの悪戦苦闘を経て、私は大きな方向転換をすることになる。それは「型稽古」への開眼でもあった。「形より感覚」という学び方ではなく、まず「型」という形から入ろうというものである。「型稽古」の中に感覚を養うエッセンスを組み込むという発想である。
ちなみに「型稽古=堅苦しい」、そんな印象を持ちやすいかも知れない。確かに自由な発想を活かせるような稽古ではないが、だからと言って型稽古は何も堅く苦しめる指導では決していない。
「型」はその中に、型の発明者が練り込あげた感覚が過不足なく凝縮されている。従って「型」を完全に再現できるように努力する過程において、その発明者の感覚がだんだんと、そして自ずから体に染み渡っていく様な「体感伝達システム」であるのだ。
長い長い試行錯誤を経て、私はようやくそこに気が付くことが出来た。研究を重ねて重ねて、結局は武道や芸道といった日本古来の文化継承方法に行き着いたことになる。
私はこの試行錯誤について遠回りであったとは決して思わない。初めから日本伝統文化の真似をして「型稽古」もどきの整体指導をしても、やっぱり途中で行き詰まっていたに違いない。私はさんざん悩んで失敗してきたから、型稽古の意味が少し理解できるようになってきたのだ。
今、千照館で行っている門外不出の「型稽古」は、こういう経緯を経て導入されたものである。私が整体の現場で泣き笑いしながら培ってきた体感を伝達するシステムとして「丹足型稽古」を行っている。
その後の経過は悪くはない。少なくとも我流で勘違いするような道場生は発生していないし、だんだんと感覚が身に付いてくるのではと楽しみに感じる。私は型稽古の凄さを、日本伝統文化の知恵を思い知る日々を過ごしている。
ただ私の取り組みは遅かったのかもしれない。
私がもたもたと試行錯誤している間に、整体業界はほぼ壊滅してしまった。都市部では整体院が姿を消し整骨院が乱立するようになった。(その整骨院でさえも過当競争で日々淘汰されている。)もはや整体師は「食っていけない」仕事になってしまったと言ってもいいだろう。
そして変わらないのは、病院でも整骨院でも救われない人が日本中をさまよっているという現実だけである。
これからの民間療法はどうなっていくのだろうか。
丹足創始者
三宅弘晃
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