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揉道4.自分の人生をはじめる

なぜ勉強しなくてはいけないのか

自分の人生をコントロールしているのは誰だろうか。

 

 

高校3年生に英語の偏差値を27から72まで上げたが、それでも大阪外国語大学の壁は厚かった。

 

親は受かっていた立命館大学にいけばと言ってくれたが、私は迷わず浪人生活を選んだ。学校からも親からも解放される狭間の一年が欲しかったんだと思う。

 

浪人時代は、受験勉強の代わりに社会勉強をしようと思った。高校時代に教育に関心を持った。親や学校は「勉強しなさい」の一点張りで、「なぜ勉強しないといけないのか」というそもそものテーマについて何のアドバイスもくれなかった。

 

「みんな勉強しているでしょ。」「いい会社に入ってちゃんと生活できるようにだよ。」と言われても、それは夢をあきらめた大人の念仏のように感じてしまった。

 

日本の教育はどこかおかしい。何がおかしいのか突き止めてそれを変えたいと思った。苦しんだ高校3年間のリベンジの様な気分もあったと思う。「盗んだバイクで走り出す~♪」尾崎豊を良く聴いた。

 

思い立ったら即行動、ということでまず家庭教師のバイトをすることにした。

 

 

 

浪人家庭教師

井上君と言う男の子を教えた。受験勉強に熱が入らない井上君のことを、お母さんが悩んでいた。

 

私は井上君と話をすることから始めた。井上君が今したいことは何か。なぜ受験をするのか。将来の夢はあるのか。そんなことを話し合った。次第に井上君の中で将来の夢と今の勉強が繋がってきて、自ら勉強するようになった。

 

成績はぐんぐん伸びて、彼は志望校に合格した。井上君にもお母さんにも、まるで拝むかのように感謝してもらったが、私には当然の成り行きにしか思えなかった。

 

 

 

かなちゃんと言う女の子も教えた。

 

育ちの良いまじめな子だったが、疲れた顔をすることが多かったので聞いてみたら、私以外にも数学と世界史の家庭教師が来るのだという。週に5日、3人の家庭教師が来ていた。ちょっと詰め込みすぎじゃないかと意見した。そうしたら私はクビになった。

 

私がやめたところで、別の英語の家庭教師がつくのは目に見えていた。親には期待できない。かなちゃんがいつか、自分の人生を始めるきっかけになったのならいいなと今でも思っている。

 

 

つまるところ教育は子供の問題である以上に、大人の問題でもあるのだ。そんなことを当時思ったが、25年経った今も状況は何も改善されていない。

 

 

 

ナンシーとの出会い

浪人中にできるだけ世界のことを知りたいと思った。まず外国人の友達を作ろうと思った。大阪外大に入る前に、世界のことをちょっとでも知っておきたいと思った。

 

京都の「国際交流センター」には外国人が沢山出入りするとの情報を仕入れ、そこで友達を見つけよう(ナンパしよう)という作戦を立てた。

 

1人目の美人な女性には綺麗にスルーされたが、二人目の男性が快く相手をしてくれた。キースという名のユダヤ系のアメリカ人で、私より少し年上のとても感じのよい好青年だった。

 

キースは英会話学校で先生をしていることもあり、私の下手な英語にも上手に付き合ってくれた。定期的に遊びに行きったりご飯に行ったりして、いつもニコニコと色々なことを教えてくれた。まるでお兄さんが出来たように嬉しかった。彼はデューク大学に通っていて、その後シティバンクに就職した。

 

その後キースのいとこで、ブラウン大学に通っていたナンシーと言う女子大生が数か月ホームステイで我が家にやってきた。両親も予期せぬ展開にびっくりしていたけれども、可愛くて愛嬌のあるナンシーとの生活を思いのほか楽しんでくれた。

 

年齢は彼女の方が一つだけ上だったが、精神年齢は大人と子供のようにさえ感じた。よく日本文化や日米関係や環境問題などを話したが、いつも圧倒された。時には夜中まで話し込むこともあって、腰を据えて話し合うことの大事さを学んだ。

 

翌年にはアメリカに帰ったキースとナンシーを訪れて、両家にショートステイさせてもらった。キースの父は医師、ナンシーの父は弁護士で、マイ別荘でマイクルーザーでジェットスキーやウインドサーフィンを楽しみ、あちこち観光に連れて行ってもらい、まるでハリウッド映画の中にいるような日々を過ごした。アメリカの富裕層の暮らしを体験できたのは勉強になった。

 

ナンシーにボストンの街を案内してもらった時に、「すごく歴史を感じるでしょ」と言われて少し微妙な気分になった。京都や奈良が普通にある日本はやはりすごいなと、外に出て初めて思った。これは大阪外大に入ってからの話である。

 

 

 

自分の人生を生きる

 

 

浪人中の1年間は今でも忘れられない時間である。初めて得た自由の時間に、自分で考えて行動するという生き方を始めることができた。もちろん親の庇護の中ではあるが、それまでの管理教育を思うと大海に船をこぎ出した気分だった。

 

 

それまでの私は、自分の人生は自分で作るものだということを知らなかった。親や大人たちが道を指し示してくれるのだとどこかで思っていた。だから思い通りにいかないときに、親や大人を心の中で非難した。

 

浪人時代に出会ったナンシーは高校生の時から日本にホームステイに来ていた。自分の考えで自分の人生を模索していた。彼女と自分を大人と子供の用に感じたのは、的外れではなかったのだ。

 

 

 

 

最近のNancy

 

 

 

 

 

彼女は今も自分の人生を歩んでいる。

 

 

 

 

つづく。

 

 

丹足創始者

三宅弘晃

 

 

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